第三の音楽

伊奈 一男 (音楽評論家)

 

 「記念」と銘打ったオーケストラといえばまずは「サイトウ・キネン・オーケストラ」 を思い浮かべる。優れたチェリスト、指揮者そして何よりも偉大な教育者であった故斉藤秀雄に感謝するという意味合いで小澤征爾を中心に門下生が作り上げた。では世界にもそういった例があるだろうか。世界的チェリスト、パブロ・カザルスが亡くなった時、世界の演奏家が集まって記念オーケストラ公演をやったような漠然とした記憶がある。定かではなく、勘違いかもしれない。これ以外にはそういうオーケストラの存在を識らない。記念オーケストラなるものはそんなに簡単に出来上がるものではないのだ。ある人の優れた業績を讃えようという多くの人たちの強い意志と理念、それを纏めあげる核がなければならない。たとえそれがあっても容易なことでは生み出されないと思う。では何が必要条件なのか。記念されるべき対象がただ優れているというだけではなくて、類い稀な資質を備えているということではあるまいか。「吉田 正 記念オーケストラ」は吉田 正さんが遺した業績がまさにそうした必要・十分条件を満たしていたからこそ生まれ出たのだと思う。

 

「音楽には国境がない」「音楽には純音楽と大衆音楽という区別はなく、いい音楽とそうでない音楽の違いがあるだけだ」という言葉をよく耳にする。もっともらしい響きの言い方だ。だが、いかに立派な言葉であっても一面の真理を述べているに過ぎない。ウイーンの音楽家から聞いたことがある。「ウインナ・ワルツの真髄は、比較的近いドイツのミュンヘンのオーケストラでも出せないよ」と。国境があるということだ。また「オペラと歌謡曲は歌という意味で同じものだ」という論も成立しない。明確に違いはある。 ただし、このことから純音楽が「上」で大衆音楽が「下」という評価が導き出されるとしたら、それは基本的に間違った認識なのである。作曲家の優れた感性が捉えた「美」に開かれた普遍性があればそれは誰にでも遡及する。つまり、「上」の音楽なのだ。だから優れた演奏家同士の間ではクラシックとポピュラーの人的交流も行われ、レパートリーの共有だって可能になってくる。こうして二つの音楽の間に架け橋が作られるならば、固定化している純音楽、大衆音楽という概念を打破して新しい「美」が創出されるに違いない。「吉田 正 記念オーケストラ」の誕生は、まさにそれを実証するための素晴らしいチャンスなのである。

 

 吉田 正作品の真価は歌手によって十分に再現される。それで十分というのがこれまでの常識であった。でも、それだけでは勿体無いじゃないかと痛感したのが指揮者大沢可直である。吉田 正作品を再構築して二つの音楽の架け橋を作りたい、それによって吉田作品に別の角度から光をあてて新しい美しさを見出したいというのが彼の真の目的だと思う。こうして彼は「東京シンフォニー第1番」を作り上げ、自身が指揮者を勤めているトルコのイズミール交響楽団で初演に成功した。しかし吉田作品はまだまだ宝庫であり、作品はこれからも続いて生み出される。それには日本にそのためのオーケストラが必要だということからこの交響楽団が誕生した。

 

 大沢の業績は決して吉田メロディをつぎはぎしてシンフォニーに纏めたと言うことではない。吉田 正が作品を通じて何を表現したかったのかを模索し、そのメロディを組み立てることでさらに美しい世界を創造しようという意図だと判断したい。ここには純でも大衆でもないサード・ストリーム、つまり第三の音楽が生まれる可能性を期待してもよさそうだ。上記で「一面の真理でしかない」と言ったことが、実は本当の真理になるように第三番、第四番が相次いで生まれることを期待しておく。

 

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