吉田正交響組曲の歴史

 

吉田正(敬愛する吉田先生を始め、すべての敬称を略させて頂くことをお許し願う)を語る前に、日本が生み出した和洋折衷文化の代表ともいえる歌謡曲の成立と成熟の過程を音楽史的な視点から検証してみたい。

 

まず俗に我々が西洋音楽として認識して日常、耳にする幾会が多いのは、バッハを代表とするバロック時代以降の作品であり、それ以前のグレゴリオ聖歌などは、クリスチャンでない限り聞いたことがある人は稀であろう。従ってここでは、バロック以後を対象にして分析していくことにする。

 

一般にクラシックというと、ずいぶん古い昔の音楽であると、とらえがちであるが、日本の年号に照らし合わせると意外な事実に気づく。とともに、小澤征爾を始めとする国際的な水準の音楽家を多数輩出するに至った土壌は歴史的な経緯によって形成されたことがわかる。

 

他のアジア、アフリカ、中南米などの諸国が西洋音楽を受け入れた経緯と比較すると、いかにわが国の明治維新がその後の日本音楽会にとって極めて幸福なタイミングであったことを、以下の西洋音楽史との対比により知ることができる。

 

バロックからモーツァルト、ベートーベンを代表とする古典派時代、わが国における江戸時代のほぼ中期、元禄や文化文政の燗塾した大衆芸能の時代であった。ロマン派の時代は幕末期に始まり、明治時代にその隆盛を極める。まず幕末期の作曲家としてはショパン、メンデルスゾーン、シューマン、ベルリオーズなどが挙げられ、明治期となると枚挙にいとまがないが敢えて数名列挙すれば、リスト、ワーグナー、ヴェルディー、ブラームス、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、またはマーラー、サン・サーンスは大正時代。シベリウス、ストラビンスキー、ラフマニノフに至っては昭和がその活躍の舞台である。

 

なかでも特筆すべきはヨハン・シュトラウス、スッペ、オッフェンバッハなど当時の欧州で流行していたウィンナワルツなどの軽音楽が明治維新直後、鹿鳴館でリアルタイムで演奏され、踊られていたという事実であろう。

 

また明治―大正期に欧州で大流行した軽い大衆オペラの喜歌劇はそのまま浅草の大正オペラにつながり、田谷力三などのスターと「恋はやさし野辺の花よ」などのヒット曲を生んだ。

 

昭和初期の流行歌は「カチューシヤの花」、「ゴンドラの歌」、「東京行進曲」などであり、明らかに大正オペラの系列に属するが、現在「演歌」というジャンルが歌謡曲のなかで確立している。その原型ともいうべき「影を慕いて」、「酒は涙かため息か」などが、古賀政男、藤山一郎のコンビで昭和6年にヒットをしたことが日本の歌謡界にとって革命的な現象であったといわざるを得ない。また同コンビが昭和10年代に入り発表した「東京ラプソディーは」は青春歌謡のルーツとして重要な作品である。

 

西洋音楽は欧州各地の王室の支援により支えられてきたが、第一次大戦後政治経済の中心がアメリカに移るとともに、西洋音楽のメッカは北米大陸に移動、新しいポピュラー音楽が誕生した。

 

常にリアルタイムで西欧の流行音楽を取り入れてきた日本では服部良一が現れ、第二次大戦をはさんだ時期に淡谷のり子、ディックミネなどとジャズやタンゴなどを取り入れた作風ですぐアメリカの時代に順応した。当時のアメリカは文化的には先進国であった欧州からの強い影響下にあり、例えばジャズバンドといわずにグレン・ミラーですらグレン・ミラー・オーケストラと称していたり、ジョージ・ガーシュインはクラシックとジャズの折衷として、ラプソディー・イン・ブルーなどのシンフォニックジャズを生み出している。

 

ロックミュージックがアメリカから世界を席捲したのは第二次大戦後のことであり、オーケストラで使用される楽器の種類の増加と機能の向上と併せ、戦後の自由な風潮のもと歌謡曲の全盛期を迎える為の条件がすべて揃うことになった。古賀政男がそれまでの彼の作風からは考えられないほど妖艶な「赤い靴のタンゴ」を作曲したのはその象徴であろう。

 

戦後シベリアに抑留され、不当な強制労働を強いられていた日本兵に勇気を与えるべく捕虜収容所で吉田正よって作曲された「異国の丘」がいつの間にか国内でヒットした。「リンゴの歌」の流行と併せ歌謡曲の黄金時代の始まりであり、それは昭和50年代、カラオケブームが台頭するまで続いた。カラオケの功罪は風呂場の残響を頼りに鼻歌を歌っていた大衆をマイクロフォンのエコーで一億総歌手といわしめる程にした功績は誰もが認めるところであるが、あまりに誰でも歌える平易な作品を市場のニーズに合わせ作り続けた為、歌謡曲全体の音楽的水準が低下するという弊害も副作用として生み出した。

 

吉田正の主要な作品は昭和30~40年代に集中しており、その意味でも歌謡曲黄金時代のシンボリックな存在であったことに異論をはさむ余地はなく、それは古賀政男、服部良一に続いて国民栄誉賞を受賞したことからも明らかであろう。

 

現在、東南アジア諸国で広く歌われている中国語を中心とする流行歌の30%余りが昭和30、40年代の日本歌謡曲であり、その多くは吉田正の作品である。地元では完全にチャイニーズソングとして同化してしまっており大半の人は、原曲が日本の歌謡曲であるとは誰も信用しない程である。その反面いま流行している日本製ポップスはあくまでも現地の若者にとって、経済とテクノロジーの先進国である日本から来たファッションに過ぎず、かつてのように中国語に翻訳し、まるで自国の歌のような受け止め方をすることはなくなった。これは文化的な価値観としての日本歌謡曲の地盤低下を物語っているといえる。

 

吉田正の作風は大きく分類すると(1)「異国の丘」に始まる久慈あさみや小畑実などの作品を書いていた初期。(2)フランク永井、松尾和子、鶴田浩二、マヒナスターズと三浦洸一の為に書いた都会調でモダンな作風。(3)橋幸夫、三田明、吉永小百合などの青春歌謡、リズム歌謡。以上3分類される。このうち東京シンフォニーにおいては数多い吉田作品のなかでもその中核、吉田メロディーの本質といえる和洋折衷の歌謡曲とはいえ、その70%が洋風のムードを持つ第2分類の曲をメインに構成して、全4楽章をもし吉田正が100人編成の交響楽団の為に作曲をすればこのようなものを書いたであろうという想定の基に編曲させて頂いた。そもそも吉田メロディーは多くの優れた歌い手により大衆に受け入れられ、また今後も引き続き歌い継がれるのは自明のことではあるが、日本音楽史上もっとも誇りを持てる時期に作られた吉田作品は100年、200年後を見据えて残さねばならず、その為に吉田正三回忌に際し「東京シンフォニー」が演奏されることになった。

 

和洋折衷の芸術として完成された吉田メロディーを新しいスタイルで演奏することは、昔のヒット曲を懐かしがる世代のみではなく、あくまでも現代の若者に対する提言と警鐘である。

 

歌謡界とは直接かかわりの少ない筆者が吉田未亡人のお許しの許、数多い吉田門下生の末席に列するのもひとえに吉田正がクラシック、ポップスのジャンルを超越した偉大な芸術家であったことの証明に他ならない。

 

Page Top